九十九里浜(北見志保子、平井康三郎)沖はるかに…

歌曲

お待ちしておりました!

あっという間に7月ももう終わり。地元の目玉のお祭りも、知らないうちに終わっていました。時間の流れが早く感じる今日この頃です。

さて今回は、日本歌曲が好きな人なら確実に知っているであろう「九十九里浜」について。まずは私が歌ったものを掲載します。

ドラマチック性もありながらコンパクトにまとまった歌曲ですよね。ただ、歌詞がやや難しいので、早速そこから深掘りしていきたいと思います。

歌詞と解釈、解説

1935(昭和10)年に発表された「九十九里浜」は、平井康三郎が北見志保子という歌人から曲を依頼されたときに作曲しました。戦前の歌ですね。

北見が書いた歌詞は、やや古めかしいことばで書かれています。

歌詞

沖はるかに 荒れて浪立ち 水平線
日の出近くして 海鳥飛べり

沖つ浪 みるにはるけし 思ふこと
五百重へだてて わがなりがたし

わだつみの 太平洋に まむかひて
砂濱白し 九十九里なり

【口語訳(意訳:弥生歌月)】

沖のはるか遠くでは、海が荒れて波が立ち、水平線のあたりでは、もうすぐ日が昇ろうとしていて、海鳥が飛んでいる。

沖の波は、見ると遠くに感じられる。思うことは何重もの隔たりがあって、自分の力ではどうすることもできない。

わだつみの太平洋に真向かい、砂浜は白い。そんなここは、九十九里浜である。

解釈

歌詞の内容としては、口語訳したとおりです。ただ、解釈が少ししづらい部分がありますよね。特に2段目。

沖つ浪 みるにはるけし 思ふこと
五百重へだてて わがなりがたし

ここは、九十九里浜から沖を眺め、はるばると波が重なり続ける様子を見て、自分の心の悩みなども同じように重なり続けているということです。

ところでその悩みとは何か?……もちろん歌い手の主観で良いと思いますが、作詞者・北見志保子の気持ちに寄り添うならば、恋ともいえます。遠く隔たれたあの人と結ばれたいという苦悶です。そして歌の最後の激しい終わり方は、まさに情熱。となると最初の荒れる海も、なんとなく心情が分かってきそうですね。

単に景色を描いているだけなら、ここまでドラマチックな仕上がりにする必要性は薄くなります。転調や曲調が短時間でころころ変わるのは、情緒不安定さを表しているように思います。アップダウンが激しいですよね。

“沖つ浪” について

私が師匠のレッスンで「九十九里浜」の指導を受けたとき、師匠は “沖つ浪” を間違えて捉えていました。

どう間違えていたかというと、 “沖 津波” だから “津” で少し言い直しなさい、と師匠はおっしゃったのです。

仮に本当に津波ならば、そこの曲調とは合わないし、そもそも情景もおかしくなります。津波を見て、思うこと五百重隔てることになってしまいます。津波が来るなら、悩むより早く逃げないと!というかすでに来ていたら時すでに遅しです!

沖つ浪とは、直訳すると沖の波です。”つ” は格助詞 “の” と似たような役割を果たしています。和歌などでもこの用法は見られ、たとえば古今和歌集の、

風吹けば 沖つ白波たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ

には “沖つ白波” と出てきます。

間違っても、沖つ浪を沖津波と捉えないようにしましょう。

“わだつみ” とは?

“わだつみ” ということばが出てきますが、これもクセのあるワードですね。

わだつみ(わたつみ)は、漢字で書くと海神などと書きます。日本神話に出てくる海の神です。そこから派生して、海そのものを表現することもあり、「九十九里浜」に出てくるのは海として捉えれば良いでしょう。

ただそれだと、”わだつみの太平洋” は、海の太平洋という意味になってしまいます。なんだか違和感がありますね。そんなときはあえて訳す必要はないと思います。そもそも枕詞みたいなものですから。

“海鳥” ってどんな鳥?

ところで、(歌詞の前半に戻りますが)”海鳥” はどんな鳥なのでしょう?そりゃ海に飛ぶ鳥ですが、具体的にどういう種類の鳥?

海といえばカモメを思い浮かべる方も多いですよね。カモメは夏のイメージがありますが、実は冬鳥です。カモメの仲間は夏にもいますが、もし夏をイメージするなら、一般的なセグロカモメではなくウミネコのほうがふさわしいです。ウミネコは年中いる鳥です。

ほか、九十九里浜にいる可能性のいる海鳥は、ユリカモメ、クロサギ、ウミウなどです。ちなみにペンギンも海鳥ですが、九十九里浜にはいないし、飛ぶことすらできません。

音楽的ポイントや歌い方の工夫

「九十九里浜」はコンパクトながらにドラマチックな歌です。歌詞の意味を把握して朗読し、咀嚼し、そのうえで音楽性に合わせた歌い方をしていくことが大切ですね。

大きく分けて三部構成

この歌は、荒々しい第一部、穏やかだが不安定な第二部、毅然かつ前向きな第三部の三部構成となっています。ちょうど歌詞の段落に合わせて分かれているので、捉えやすいかと思います。

先ほど述べましたが、恋による心の動きとして見ると、その三部構成も納得しやすいかもしれません。

第一部は二拍子。ピアノはトレモロを激しく行い、歌は張り裂けぶような節となっています。第二部は三拍子。感情爆発後の落ち着きがありますが、半音ずらした音程が多用され、心の不安定さを描きます。第三部は再び二拍子ですが、ピアノの三連符が躍動的です。歌も朗々と明るくいきたいところですね。

体力の計算と発声の工夫

第一部では、思いっきり感情を発露して、声も物理的に大きな音量で出したくなる部分です。ただ、ついつい体に力を込めてしまい、無駄に体力を消費してしまうキライもあります。また、息の消費もしやすく、酸欠に陥りがち。

いくら感情的なところでも、冷静に息や体をコントロールする[もうひとりの自分]も必要です。叫べば良いものではなく、大きな声で歌えば良いものでもありません。口はむしろ大きく開けないほうが良いと思います。焦らず、きちんと顔の前面に声を集めて細く当てることで、案外声は聴き手に届きます。

第一部はピアノとの音量バランスも難しいところ。というか本気で弾いたら確実に歌が負けます。いや、本気で良いのだけれども、グランドピアノの蓋を小開にするなり、音量は抑えつつも勢いのある音を出すように弾くなりすると、歌い手も歌いやすいかと思います。

半音の醍醐味

特に第二部では、音程に工夫が見られます。”沖つ浪” の “な”、”はるけし” の “る”、思ふこと” の “こ”、”なりがたし” の “が” などに、本来の音から半音ずらした音程が使われています。

それは感情の絶妙な揺らぎを表しているのでは?と私は思います。なんだか心がキュウゥッてきませんか?私はきます。もしあなたも同じように感じるのでしたら、ぜひその気持ちを意識して表現したいものですね。

拍子に乗りすぎず、フレーズを意識

第一部は二拍子、第二部は三拍子、第三部は二拍子ですが、いずれも、拍子を感じることは必要ですが、乗りすぎると良くありません。

乗りすぎると、重心が浮いたり、歌詞のフレーズの中に不自然な隙間ができたりしてしまいます。曲によってはそれが生きることもありますが、「九十九里浜」のようなドラマチックな歌でそれをやると、かえってスカスカな印象を与えかねません。

朗読で感じた歌詞のフレーズを大切にし、また音楽的なフレーズも意識して、重心を安定させてしっかりと声を充実させる必要があるでしょう。

特に第一部では、それをしないと声がピアノに埋もれやすくなります。第二部では高い音もさりげなく出てきますが、あくまでフレーズの中の通過点として捉えるとうまくいきやすくなります。第三部も、堂々と聞かせるには、安定かつとめどなく出てくる水流のごとく歌っていくと聴きごたえが出てくると思います。

イの母音の歌い切り

この歌の最後は、イの母音で伸ばし、歌い切ります。なんといってもここはかっこいい。だからこそ難しい。

イの母音は絞めた声になりがちですが、私が思うに、開いた音より、むしろめてめた音(←めた音ではない)を生かして歌ったほうが良いと考えます。

イの母音の性質は、明るく、フレーズの引き締め役。また高周波成分が強いため、前に出やすい音です。その性質を無碍にせず、しっかりとこの歌を引き締めて歌い切りたいものです。

この歌に対する批判

私が「九十九里浜」を歌っている動画に、あるコメントがつきました。その一部分に、この歌に対する批判があったのでご紹介します。

… 唯一、残念なのは、歌詞です。この作詞者は、「平城山」のばあいもそうですが、せっかくいい主題を掲げながら、それを自分の言葉でステップの長い詩として完成させることなく、息切れするように次の主題(それもいい主題なのですが)に移って …

たしかに歌詞は、短いことばで場面展開をしていますね。それに合わせて音楽もすぐに場面が切り替わります。コンパクトながらにドラマチックだと私は述べましたが、それは面白い点であるものの、どことなくせわしなく感じる点も否めません。

とはいえ、歌い手は作品という枠組みの中で、最大限のパフォーマンスをするしかありません。また、このせわしなさをポジティブなものとして捉える努力も、歌い手としては怠らずにやっていきたいものと思います。

もちろん、作品に対してどう感じるかについて個人の自由であることは、言うまでもありません。

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