我は海の子(作詞者・作曲者共に不詳)

唱歌・童謡

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夏も後半戦のクライマックス。暑中お見舞い申し上げます。ゲリラ豪雨が気になる頃ではありますが、晴れの日にはカーッと青空が澄み渡り、清々しさを感じます。が、やはりこの蒸し暑さは嫌ですね。

さて、今回は唱歌「我は海の子」についてのお話です。まずは私が全7節歌ったものを掲載しましょう。

後半は少し きな臭いですね。上の動画では、思想等関係なく、史実として歌ってみました。「我は海の子」は文部省唱歌ですが、子どもたちは日常的に国家主義に触れていたというわけです。

では、早速「我は海の子」についてクローズアップしていきましょう。

歌詞の意味と解釈

「我は海の子」の歌詞はやや古風で、理解するのが難しいと感じる人もいるかもしれません。以下にて歌詞とその口語訳をご紹介し、内容について見ていくことにしましょう。

歌詞

歌詞は七五調四句であり、第7節まであります。

我は海の子白波の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ

生れてしほに浴して
浪を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の氣を
吸ひてわらべとなりにけり

髙く鼻つくいその香に
不斷の花のかをりあり
なぎさの松に吹く風を
いみじき樂と我は聞く

丈餘のろかい操りて
行手定めぬ浪まくら
百尋󠄁千尋󠄁海の底
遊びなれたる庭廣し

幾年こゝにきたへたる
鐡より堅きかひなあり
吹く鹽風に黑みたる
はだは赤銅さながらに

浪にたゞよふ氷山も
來らば來れ恐れんや
海まき上ぐるたつまきも
起らば起れ驚かじ

いで大船を乘出して
我は拾はん海の富
いで軍艦に乘組みて
我は護らん海の國

口語訳(訳:弥生歌月)と解釈

ここから、口語訳と解釈を、各節にわけて進めていきます。なお、口語訳については、私・弥生歌月なりのものです。国語学者ではありませんので、その点はご了承ください。

第1節

我は海の子白波の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ

【口語訳】
僕は海の子(寵児)だ。白波が音を立てる磯のほとりには松原があり、そこには、煙突から出る煙が横に流れていく苫屋が建っている。その家こそ、僕の慕わしい住まいなのだ。

【解釈】
漁村に生まれた少年あるいは青年の心を歌っています。”白浪の” は “さわぐ” につながっています。同様に、”松原に” は “煙たなびく” につながっています。”とまや” とは、漁師の粗末な家のことですが、ここでは謙遜表現としてそういう言い方になっていると思われます。また、”とまやこそ ~ すみかなれ” では、〈こそ+已然形〉の係り結びの法則が見られ、これは強調表現です。”なれ” は “なり” の已然形であり、命令形ではありません。

第2節

生れてしほに浴して
浪を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の氣を
吸ひてわらべとなりにけり

【口語訳】
生まれて以来、海水を産湯として浴び、波を子守歌として聞き、はるか遠くより寄せて来る海の空気を吸いながら、ひとりの日本男児となった。

【解釈】
“しほ” は漢字で〈潮〉。”浴” には海水浴の意味もありますが、ここでは産湯(ゆぶゆ)として捉えましょう。”千里” については、一里が約4kmなので、千里は約4000kmということになります(東京からマレーシアの北東端くらいまでの距離。日本だと東京―大阪間(約400km)を5往復くらい)。ただ、ここでは具体的な数値はどうでもよく、〈はるか遠く〉と意訳すると良いでしょう。

第3節

髙く鼻つくいその香に
不斷の花のかをりあり
なぎさの松に吹く風を
いみじき樂と我は聞く

【口語訳】
ツンと鼻をつく磯の香りに、絶え間なくただよう花の香りを感じる。なぎさの松には風が吹きつけるが、そのときに音が立つ。なんとも素晴らしい音楽。僕はそう思いながら聴く。

【解釈】
白い波を花にたとえ、磯の香りを “花のかをり” として感じています。”不斷” は “花” もしくは “かをり” あるいはその両方にかかっていると思われます。また、第3節のポイントは、”いみじき”(終止形〈いみじ〉)をどう捉えるかです。〈いみじ〉には悪い意味と良い意味がありますが、いずれにせよ程度が大きいことを表します。ここでは良いほうの意味で捉えましょう。

第4節

丈餘のろかい操りて
行手定めぬ浪まくら
百尋󠄁千尋󠄁海の底
遊びなれたる庭廣し

【口語訳】
一丈あまりの櫓櫂を操縦して、行く先が定まることのない船の旅。その波の下には広くて深い海底があるが、それは僕にとって遊び慣れた庭も同然であり、とにかく広い。

【解釈】
“丈餘” には、一丈(約3m)超という意味があります。また、第4節のクセモノは “浪まくら” 。漁などの船旅として訳すことで意味が通ります。庭同然の広い海底は当然波の下にありますが、決して海底探検をしているわけではありません。また、”百尋” と “千尋” の広さですが、一尋が約1.818mなので、あとは100や1000をかければ良いです。しかしそれでも短すぎ。ここでは言葉の綾と見て、とにかく広く深いことを意味するものと捉えてみましょう。

第5節

幾年こゝにきたへたる
鐡より堅きかひなあり
吹く鹽風に黑みたる
はだは赤銅さながらに

【口語訳】
何年もここに鍛えてきた、鉄よりも堅い腕を僕は持っている。吹く潮風によって鉄が錆びたかのように黒くなったその肌は、まるで赤銅のようになっている。

【解釈】
この第5節はシンプルですが象徴的です。まず、”きたへたる” の “たる” は完了の助動詞ですが、存続の意味もあるので、過去から現在にかけて鍛えてきたと捉えれば良いと思います。”赤銅” とは、銅に少量の金や微量の銀を加えた合金のことですが、〈赤銅色の肌〉は、日焼け後の艶のある肌の色を指す表現でもあります。いかにも海で陽を浴び続けたようなエネルギッシュな詩ですね。島国らしさを感じます。

第6節

浪にたゞよふ氷山も
來らば來れ恐れんや
海まき上ぐるたつまきも
起らば起れ驚かじ

【口語訳】
波に浮いて漂う氷山も、来るなら来てみろ、恐れはしない。
海をまき上げるたつまきも、起こるなら起これ、驚きはしない。

【解釈】
第6節では、男は男らしく、我慢強く、何事にも堪えるのだ、という思想を感じます。…令和では時代錯誤を感じますが、そのような価値観の人は割といたりします(その良し悪しについてはさておき、色々考えさせられます)。”恐れんや” は反語表現なので、”恐れようか、いや恐れることはない” と訳します。”驚かじ” の “じ” は打消意志の助動詞であり、普通の打消の助動詞「ず」よりも遥かに主観的な言い回しです。なお、 “氷山” は北海の氷山、”たつまき” は南洋のような暖かい海の竜巻を指しています。つまり、どの場所へ行こうとも……といった含蓄があります。しかしこれは本当に漁の歌なのでしょうか。何か言いたげではないですか?……第7節につづきます。

第7節

いで大船を乘出して
我は拾はん海の富
いで軍艦に乘組みて
我は護らん海の國

【口語訳】
さあ、大きな船に乗って出発し、僕は拾うんだ!海の富を。
さあ、軍艦に乗り組んで、僕は護るんだ!この海の国・日本を。

【解釈】
先ほどの第6節でやや きな臭くなりましたが、ついに最後に本性を現しましたね。特に第7節後半は軍事色の強い歌詞で、まさに戦時唱歌ともいえる内容です。 “いで” というのは〈さあ〉といった意味であり、思い立って行動する様を表します。”拾わん” と “護らん” の〈ん〉は、それぞれ意志の助動詞〈む〉のこと。口をつむってMのように発音します。Nのように発音してしまうと、否定の助動詞〈ず〉の連体形である〈ぬ〉が撥音化した〈ん〉になってしまうので要注意です。

歌詞についてのまとめ

以上、「我は海の子」の歌詞の解説をしてきました。

まとめると、第1節~第5節は自己紹介や生まれ育った場所の描写。第6節は男としての意思表示。第7節は意思表示を超越した強い信念の表れといえます。

なお、現代では、第3節までしか歌われないケースがほとんどです。第4節以降は理解が難しいというのもありますが、やや冗長的なのと、特に最後が軍国主義的であるのは、やはり現代の小学生にはふさわしくないといった考え方があると思います。

「我は海の子」の誕生

「我は海の子」は、1910(明治43)年の『尋常小學讀本』に詩が掲載され、同年の『尋常小學讀本唱歌』に歌が掲載されました。それらには作者についての公表はなく、現在も、誰が作詞したのか、また誰が作曲したのかについては明らかになっていません。

作詞者は実はこの人!?

すぐ上に書いたように、作詞者・作曲者共に不詳です。しかし作詞者については、芳賀矢一説、宮原晃一郎説などがあります。

芳賀矢一説

国語学者・金田一春彦が国士舘大学教授・岩井良雄から聞いた話によると、ある日、東京帝国大学教授の芳賀矢一が文部省から依頼されて唱歌の歌詞を考えていたそうです。その唱歌こそ「われは海の子」。芳賀矢一の才能や人柄からしても、その作詞者としてきわめて適任だったと金田一春彦は見ています(金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌 明治篇』より)。

また芳賀矢一は、当時、国語読本(国語教科書)の編纂に取り組んだ人物です。また、「我は海の子」で描かれている情景は、芳賀矢一の故郷だという言い伝えもあるようです。以上から、「我は海の子」の作詞者である可能性は否定できません。

宮原晃一郎説

1908(明治41)年。新体詩の懸賞にて、宮原晃一郎(宮原知久)の「海の子」が佳作に選ばれました。彼の長女・典子によると、この詩は「我は海の子」として後に教科書に採用され、現代まで歌い継がれているのだそうです(『宮原晃一郎年譜』より)。

南日本新聞の永里秀夫によると、宮原晃一郎本人はラジオ番組の中で、自分が書いたものだと主張したそうです。また、歴史学者の森銑三(もりせんぞう)は、著書『明治東京逸聞史2』の中で、「我は海の子」の作詞者は宮原晃一郎であることを本人から直接聞いた(ただし歌詞は多少直されているとのこと)と述べています。

ただ、有力な物的証拠がない以上、断定することができないのが惜しいです。入選した「海の子」も、それがどういう詩だったのかは不明です。

ほかの説

上記のふたつの説以外にも、真田範衛(さなだのりえ)説があるようですが、あまり逸話がないのが現状です。

それから、実はひとりではなく、複数人の手で作られたのではないか?という説です。先述しましたが、森銑三によると、「我は海の子」の歌詞は多少直されているとのこと。つまり、宮原晃一郎が作詞したものを誰かが手直ししたということ。

ではいったい誰か?

……芳賀矢一かも?という見方はできないでしょうか。宮原の原詞は不明ですが、現在の形に仕上げたのが芳賀だという見方です。そう捉えると、先ほどのふたつの説は両立し得ます。宮原が作詞者、芳賀が補作者というわけです。この説が現在最も有力視されています。

とはいえ、やはり推測の域を出ないのが現状です。

作曲者は誰?

作詞者については上記のように考察が進められていますが、作曲者についてはなおざりになっています。

当時の文部省唱歌は合議制でしたから、この人が作曲者だ!と特定することは困難もしくは不可能です。

「我は海の子」が歌として初出となった『尋常小學讀本唱歌』の編集委員は、上真行、小山作之助、島崎赤太郎、楠美恩三郎、岡野貞一、南能衛ですから、作曲者はこの中にいるのかもしれません。だからこそ、かえって考察が進みにくいのでしょうね。


以上、少し長くなりましたが、「我は海の子」のお話でした。

作者を明らかにしたからといって、どうかなるわけではありませんが、知的好奇心を持って取り組むと、作品に対する向き合い方も変わるような気がします。

なお、全7節を歌い切るのはなかなか大変です。体力を温存しつつ、力まず、必要ならば間奏も入れながら歌うことをおすすめします。8小節をひとつのフレーズとしてとらえて歌うと、声の運びもスムーズにいきやすいと思います。

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