お待ちしておりました!
あっという間に今年も12分の1が終わってしまい、暦のうえでは春になりました。まだまだ寒さは厳しいですが、陽射しは強くなってきているのを感じます。
さて今回は、劇中歌であり流行歌でもあった「ゴンドラの唄」を取り上げます。ひとまず私が歌ったものを掲載しましょう。
“いのち みじかし こいせよ おとめ” という冒頭の言葉は、歌を知らない人でどこかで聞いたことがあるかもしれませんね。
では早速、「ゴンドラの唄」の歌詞から見ていきたいと思います。
歌詞の口語訳および解釈
作詞は吉井勇(よしいいさむ)。1915(大正4)年4月29日の読売新聞に歌詞が掲載され広く知れ渡りましたが、初出は同年同月1日の雑誌『新日本』に掲載されたものだそうです(ただし、異なる箇所があるとか)。
では、現在知られている4番までの歌詞を読み解いていきましょう。
歌詞と口語訳
いのち短し、戀せよ、少女、
朱き唇、褪せぬ間に、
熱き血液の冷えぬ間に、
明日の月日のないものを。いのち短し、戀せよ、少女、
いざ手を取りて彼の舟に、
いざ燃ゆる頬を君が頬に、
ここには誰も來ぬものを。いのち短し、戀せよ、少女、
波にたゞよひ舟の樣に、
君が柔手を我が肩に、
ここには人目ないものを。いのち短し、戀せよ、少女、
黒髪の色褪せぬ間に、
心のほのほ消えぬ間に、
今日はふたゝび來ぬものを。
※ものによって表記が少し異なります。
【口語訳(訳:弥生歌月)】
命は短い。恋をするのだ乙女よ。
赤きくちびるが褪せないうちに。
熱き血潮が冷えないうちに。
明日の月日は無いのだから。
命は短い。恋をするのだ乙女よ。
さあ、手をとってあの舟に乗ろう。
さあ、僕の燃える頬を君の頬に当てよう。
ここには誰も来ないのだから。
命は短い。恋をするのだ乙女よ。
波にただよい、舟のように、
君の柔らかな手を僕の肩に乗せて。
ここでは人に見られることはないのだから。
命は短い。恋をするのだ乙女よ。
黒髪の色が褪せないうちに。
心の炎が消えないうちに。
今日は再び来ないのだから。
言葉の意味や解釈
意味としては口語訳のとおりですが、”〜ものを” の訳がややクセモノだと思います。
たとえば “ないものを” は、”ないのに” とか “ないにもかかわらず” と訳すことが多いですが、それだと文脈に合いません。でも実は、 “〜ものを” には、そういう逆接の意味だけでなく、順接の意味もあるのです。順接で訳すと “ないのだから” となり、文脈に沿った意味になります。
また、「ゴンドラの唄」では何を歌っているのか。
やはり恋心でしょう!と言いたいところですが、どこか客観的な視点も混ざっているので、まるで誰かの恋心の代弁をしているかのような印象も受けます。もっというと、幻想のような恋をひとりでに創ることで、世の中の女性たちに向かって、今を大切に恋をせよと言っているようにも聞こえます。
歌詞の影響と旋律の誕生
「ゴンドラの唄」の作曲者は、中山晋平という大正童謡の巨匠です。
青年であった中山の母が亡くなったとき、その葬儀の帰りの汽車の中で悲しみに暮れ、吉井勇の「ゴンドラの唄」の歌詞が語りかけてきて、汽車の揺れと共に自然と旋律が湧いてきたのだそうです。
母の死の直後ですから、”いのち短し” で始まる歌詞が、グッと心に沁み入ってきたものと思われます。
劇中歌として
「ゴンドラの唄」は、大きく二度、劇の中で使用されています。ひとつは『その前夜』、もうひとつが『生きる』です。
順に見ていきましょう。
『その前夜』
「ゴンドラの唄」は、初め、劇団《藝術座》の第5回公演『その前夜』の劇中歌として歌われました。
「ゴンドラの唄」というタイトルらしく、劇中では、舞台はイタリア・ヴェネツィア、少年船頭によって歌われました。そしてその後、松井須磨子が演じたエレエナも歌ったようです。
この歌の作曲者・中山晋平は、前年に「カチューシャの唄」を大ヒットさせていましたが、「ゴンドラの唄」は思うようにはヒットしなかったようです。中山は、その原因として、「ゴンドラの唄」が長調の6拍子であったことにあると推測としています。
たしかに私もこれまでの人生で、音楽家の先人たちより、3拍子とか8分の6拍子というのは日本人が苦手とする拍子感だと聞かされています。ただ6拍子は、基本的に大きな2拍子で捉えると歌いやすく(聴きやすく)なる、というのも覚えておいて良いと思います。特に「ゴンドラの唄」は、バルカロール(舟唄)らしく、自然とゴンドラのような揺れを感じることができます。思うようにヒットしなかったのは、本当に拍子感が原因だったのでしょうかね?
何はともあれ、現代までに長く親しまれてきている歌であることに違いはありません。
『生きる』
時代はだいぶ進んで、1952(昭和27)年、黒澤明監督の映画『生きる』が公開されました。主演は志村喬(しむらたかし)が務め、彼の演じた公務員・渡邊勘治がブランコに乗りながら「ゴンドラの唄」を歌うという設定でした。
渡邊は胃癌におかされていました。妻に先立たれており、息子にもそっぽを向かれて絶望の淵に立たされていた彼は、これまでの人生(しかも堅実な)の意味を考えます。ついには女にギャンブルに酒に……と人生を謳歌するようになります。そして最期に一念発起。市民のために児童公園を完成させ、小雪の降る中で「ゴンドラの唄」を口ずさむのです。
結局渡邊は亡くなってしまいますが、その劇中歌としての「ゴンドラの唄」は、初めて世に出たときよりもずっと深くて切ないものに感じますね。
志村喬自身も、実はその映画の撮影中、頬がこけるほどに痩せてしまったそうです。役者魂もあったかもしれませんが、盲腸の手術による体重減少が原因だったみたいですね。一説には、黒澤明監督はその体重の維持を指示したとのことです。それもそれでプロだなあと思います。
歌うときのポイント
最後に音楽的なお話です。先述した内容とかぶる箇所もありますが、「ゴンドラの唄」をきちんと歌うためにも、是非参考になさってみてください。
2拍子で捉える
この歌は8分の6拍子です。一小節の中に、八分音符が6つ入る計算になります。
しかし先述したように、6拍子は、多くの場合2拍子でとります。どういうことかというと、3拍子をひとかたまりとして捉えるのです。すると、123 223 123 223 … といった取り方になります。歌詞にあてると、いーの ちーみ じーか しー …です。
ただし、太字にした箇所を単に強くするだけだと、日本語としてたいそう不自然になりますし、わざとらしくなります。日本語は日本語の自然な流れとして歌い、それとは別レイヤーで、拍子は拍子の自然な流れとして捉えるといった、複合的な意識が必要となります。これは練習あるのみです。
意外にテンポは速く感じる
ただ幸いなことに、この歌、意外にテンポが速く感じるのですよ(あくまで原曲の場合)。
楽譜にあるテンポ指示は、付点四分音符=48です。これは、先ほど書いた 123 のかたまりをひとつとして、メトロノームを48に設定したときの速さです。
48とだけ見ると1秒の刻みより遅い。2拍子として捉えれば、だいぶゆったりとしたイメージがあります。
ただ2拍子とはいえ、6拍子の中に日本語が当てられているのは事実であり、いざ歌ってみると案外速く感じます。慣れないとテンポに置いて行かれる感じがするかもしれません。
しかしそれで良いのです。それが中山が汽車の中で思いついた、生きた旋律なのです。
伴奏はシンプル
今の世の中、「ゴンドラの唄」の編曲版はたくさんありますが、やたら感傷的な編曲になっていることが多いような気がします。具体的には、伴奏の和声(コード)が、編曲版の多くでは、原曲よりも豊かになりすぎているのです。
ところが原曲に目を向けると、伴奏は至ってシンプル。複雑な和声が使われていません。豊かすぎる音楽に慣れてしまった現代人にとっては、だいぶ希薄に聞こえてしまうかもしれません。
でも、これもまた、それで良いのです。そうであってこそ「ゴンドラの唄」だと思います。
日本的な音運びでたんたんと
「ゴンドラの唄」は原曲だとハ長調ですが、歌の旋律は、厳密にはヨナ抜き長音階になっています。ヨナ抜き音階とは、一般的な西洋音階の4番目と7番目の音を抜いた音階をいい、ハ長調においては、F(ファ)とH(シ)を抜いた音階を指します。
これはスコットランドの音階とも似ていますが、日本では呂旋法というものにも近く、明治以降の唱歌をはじめ、童謡、演歌などに多く使われています。
ヨナ抜き音階は日本的味わいを醸し出す音階ともいわれ、「ゴンドラの唄」もそのひとつ。こういった歌では、重力に従って旋律を歌うという、日本的な音運びが効果的です。
西洋のベルカントでは基本的に、次の音に移る際、ずり上げたりぶら下げたりはしません。低い音もよく浮かせて響かせ、高い音は筋をしっかり通して発声します。一方、日本的な音運びでは、その逆のようなことを行います。
ただ、やりすぎるとくどくなり、「ゴンドラの唄」の持つ雰囲気を壊しかねません。日本的な音運びはエッセンス程度に生かし、たんたんと4番まで歌い通す感じがベストです。
長くなってしまったので、ここらで筆を置きます。ちょっと疲れました。興味がある方は、『生きる』をご覧になってみても良いかと思います。ネットでも、視聴できる環境が整っているようですよ。


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