お待ちしておりました!
いやはや初々しいですねぇ。街を歩いていると、真っ黒なスーツを身にまとった若者が緊張した面持ちで歩いています。多くの会社では入社式が催され、新たな希望、人によっては絶望を新たに見ることになったことでしょう。
そんな今、社会の波など関係なく、桜の花も盛りの頃。白ピンクの花びらも道路を彩っています。毎年この時期になると、歌曲「花」を歌いたくなります。私の祖母も大好きな歌でした。
これは私の多重録音による男声版。本当は女声のほうが雰囲気的に良いのかもしれませんが、男声版は男声版で、生命力が溢れ出ているものと我ながら思います。
今回は、歌曲「花」について掘り下げていきたいと思います。
「花」は組歌『四季』の春担当
歌曲「花」は、中学校等で習う方も多いでしょうし、日本人として生きていたら必ずどこかで耳にすることがある、有名な同声二部の歌曲です。
しかし、ほとんどの人は「花」を単独でしか教わることがなく、実は4曲ある組歌の中の一曲であるんだよということは、あまり知られていないように思います。
組歌『四季』
組歌(あるいは組曲とも)『四季』は、1900(明治33)年に瀧廉太郎が編んだ作品です。それぞれの季節を担う4つの歌から成ります。以下のとおりです。
- 花(原題:花盛り)
- 納涼
- 月(秋の月)
- 雪
上から順に、春・夏・秋・冬の情景を描いており、言うまでもなく、第1曲の「花」は春担当です。歌い出し”春のうららの” なので、春の歌であることは明らかですね。
残る3曲についてはあまり有名ではありません。第2曲の「納涼」は独唱。第3曲の「月」は混声四部。「雪」は混声四部ですが伴奏がピアノ&オルガンという豪華さ。なお、第3曲の「月」は、山田耕筰編曲版では「秋の月」という独唱曲であり、そちらなら知っている人もそこそこいるかもしれません。
「春」と呼ばないで
歌曲「花」は、”春のうららの” で始まるため、タイトルを「春」と勘違いして覚えている人もいるかもしれません。私も、春のイメージが先行しすぎて、ついうっかり「春」と言ってしまっていた頃があります。今も気を抜くと間違えそうです。
では花というのはいったい何なのか、考えたことはありますか?
桜ですか?
それは本当ですか?
……これについては以下にて見ていきたいと思います。
歌詞とその直訳、解釈など
というわけで、まずは歌詞を掲載し、私なりの訳や解釈をお伝えしていきたいと思います。
歌詞
春のうらゝの隅田川 のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る 眺めを何にたとふべき見ずやあけぼの露浴びて われにもの言ふ櫻木を
見ずや夕ぐれ手をのべて われさしまねく靑柳を錦おりなす長堤に くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の 眺めを何にたとふべき
直訳(訳:弥生歌月)
春のうららの隅田川 上りと下りの船人の
櫂のしずくも花として散る 眺めを何にたとえるべきだろう いや何にもたとえようがない
見ずにいられようか いや見ようではないか 夜明けに露を浴びて 私にものを言う桜木を
見ずにいられようか いや見ようではないか 夕暮れに手をさしのべて 私を招く青柳を
桜や柳の木々が錦を織りなす長堤に 暮れると昇るおぼろ月
本当にひとときも大金の 眺めを何にたとえるべきだろうか いや何にもたとえようがない
解釈文(意訳:弥生歌月)
場所は、麗らかでのどかな春の隅田川。上りの船人と下りの船人が持っているその櫂(オール)から散るしずくも、花びらのように舞っています。この眺めをいったい何にたとえたら良いのか、たとえられるものがないほどに美しいですね。
見てごらんなさい。夜明けに、露が降りてきらめき、私に何か言っているような桜の木を。
見てごらんなさい。夕暮れどきに手をさし伸ばして、私においでと呼んでいるような青い柳の木を。
木々が錦を織りなしている長い堤防に、日が暮れると昇ってくるおぼろ月。本当に、一瞬ですら、いくらお金を積んでも足りることのないこの眺めを、いったい何にたとえたら良いのか、たとえられるものがないほど美しくてたまりません。
部分部分の意味と解釈
- うらら:春ののどかな様子。漢字を使うと〈麗ら〉となりますが、麗(うるわ)しいとはニュアンスが異なります。
- 隅田川:東京にある川ですが、当時は荒川の下流を指していたものと思われます。下流ということは、それなりに広かったことでしょう。現在は、荒川と隅田川は別々の川ですね。
- 上り下りの船人:電車に上りと下りという概念があるように、川の船にもあります。つまり川を横から見て、右へ行く船と左へ行く船があるのです。それぞれに船人がいて、櫂(オール)という道具で漕ぐことで船をコントロールしています。
- 櫂のしづくも花と散る:当然、櫂(オール)を漕ぐと水しぶきが発生します。のどかで陽気な日にはキラキラとしぶくことでしょう。その様子が花が散るようだと言っているわけです。”〜と散る” の〈〜と〉は〈〜と共に〉と解釈できないこともないですが、〈〜として〉〈〜のように〉と捉えるのが一般的です。
- たとふべき:読み方はタトーベキ。意味としては疑問もしくは反語ですが、今回は、直前の “何に” に呼応した反語で捉えると自然です。反語とは、疑問のように見せかけて、実は反対のことを言う表現。”たとえるべきか” と疑問を投げかけていると思いきや、 “いや たとえようがない” と、たとえることを否定しています。なお、〈べき〉は〈べし〉の連体形。
- 見ずや:これも反語です。ただ、こちらは〈〜や〉が付いた形です。”見ずにいられようか いや見てしまうものだ” というように訳しますが、そこから転じて “見てごらん” と訳されることが多いでしょう。
- あけぼの:ほんのりと夜が明ける頃です。漢字だと〈曙〉。
- 露浴びて:露を浴びる、すなわち露がおりて表面に水滴がついた様子です。特に寒い時間帯に起こりやすいでしょう。大気中の水蒸気が冷えて水滴となるのです。
- 手をのべて:ほら!という感じで手をさしのべてくるような様子です。助けることのたとえとして〈手をさしのべる〉と言いますが、ここでは誘っているような意味合いがありましょう。
- 錦:元々は糸で模様をつくって織り込んだ高価なものを指しますが、要は美しくて立派なもののたとえでもあります。ちなみに、錦鯉(にしきごい)は、観賞用の美しい模様を持っているため、そう呼ばれるのです。
- 長堤:長い堤防のことです。堤防とは、川沿いにある盛り上がった部分のことで、川の水が流れていかないためのバリケード。
- 暮るれば:聞いただけだと〈来たら〉と捉えそうですが、それは誤り。〈暮る〉は〈暮れる〉という言葉の古語。そこに〈〜れば〉が付くと〈暮れると〉や〈暮れるので〉という意味になります。なお、〈もし暮れたら〉という仮定の意味でとりたくなるかもしれませんが、その場合、古語では〈暮るらば〉となります。〈暮るれば〉の場合は、仮定のように起こらないことを起こるものとして描くのではなく、単純にその言葉を受けて次につなげていくイメージです。
- おぼろ月:主に春に見られる、ぼやけた月です。昼にあたためられた空気が夜に冷やされて水滴となることで月がかすんで見える現象、と説明されたりしますが、きっと花粉や黄砂のせいもあります。春の季語。
- げに:〈本当に〉〈実に〉という意味です。
- 一刻:文字通り一つの刻のことですが、刻とは時のことなので〈ひと時〉という意味ですが、ごく短い時間帯というニュアンスとして〈瞬間〉と訳しても良いと思います。現代でも “一刻を争う” というように使いますね。
- 千金:千というのは、要は金がたくさんある様子を表します。たくさんのお金とか大きな価値があるということですから、今風にいうと〈大金〉〈高価〉となりますが、今回は、天文学的な量のお金が必要、つまり、お金をいくら積んでも買えないといったニュアンスを持ちそうです。
花とは
ではここで、タイトルにもなっている「花」についての答え合わせです。
花というのは、今ではあらゆるフラワーのことを指しますが、日本の古典文学などにおける古い常識では、桜の花を指すことが多いです。
歌詞の中には “櫻木” が出てきましたが、これはたしかに桜の木です。しかし、その単語がなくても、花という単語を見たら条件反射的に桜の花と解釈することが多い。高校の古文ではそう学ぶはずです(ちなみに中国由来の漢文では基本的に梅の花と解釈)。
『源氏物語』の「胡蝶」巻が元ネタ?
ここで、紫式部が書いた『源氏物語』の中の「胡蝶」巻に出てくる歌をご紹介します。
春の日のうららにさして行く舟は 棹のしづくも花ぞちりける
どこかで見たことのあるフレーズだと思った方!お見事です。そう、「花」にそっくり。
春のうららの… 船人が
櫂のしづくも花と散る
作詞者の武島羽衣は国文学者で歌人でもありました。『源氏物語』の「胡蝶」巻をネタにとして使った可能性は非常に高いといえます。ですから、「花」も古文の世界に立脚しているといえましょう。
ちなみに、2番の桜と柳、そして3番の錦も、「胡蝶」巻に登場します。
以上はあくまで割と一般的な(?)解釈かと思いますが、誰も独自の解釈をしてはいけないとは言っていません。たとえ一般的なものと異なっていても、天地がひっくり返るほどでない限り、自分自身が抱いたイメージを大切にしていただきたいと思います。たとえ音楽のテストで×になろうとも!
中学校で習ったのは音域が低い!?
さてここから音楽的な話へと入りましょう。
突然ですが、中学校の音楽の教科書や市販の多くの楽譜に載っている「花」は、瀧廉太郎が当初書いたものよりも少しだけ低いものに変えられています。
専門用語を使うと、原曲はイ長調(A dur)ですが、教科書や多くの楽譜ではト長調(G dur)と、長2度低い調に移調されています。
一度楽譜をご覧になってみてください。前奏の入りは、どちらの譜面になっていますか?もしくはどちらに近いですか?
A

ドレミ楽譜出版社『日本抒情歌全集1』(編:長田暁二)より
B

音楽之友社『日本の唱歌 決定版』(校・編:藍川由美)より
ずばり、Aがト長調、Bがイ長調(原調)。ですので、Bの楽譜で上のパートを歌うと、3番の最後の歌い上げがだいぶ高く感じられます。逆に下のパートは、全体的に低くなりすぎず、歌いやすく感じる人も多くなると思います。
冒頭でご紹介した動画では、イ長調(原調)で歌っているため、ト長調に慣れた方だとだいぶ雰囲気が違うように感じられたかと思います。
歌うときのポイント
ここからは実践的なお話です。実際に歌うときに気にしていただきたいポイントをまとめましたので、是非参考になさってみてください。
2拍子を意識しよう
先ほどの楽譜を見ていただくと分かりますが、「花」は 4分の2拍子 の歌です。それを知らないと、なんとなく 4分の4拍子 のような気がしてしまいますよね。
でも要は2拍子ですから、それを意識して歌うと音楽に乗りやすく、歌いやすくなるでしょうし、聴きやすくもなるでしょう。2拍子で指揮をとりながら歌ってみても良いと思います。ついでにためしに4拍子でも歌ってみて、違いを体感してみてください。
- 2拍子: は る | の .う | らーらー | の | …
- 4拍子:は | る | の | . う | らー | らー | の | ー | …
上記、| で拍を区切っています。太字はひとつの小節の頭(1拍目)です。
16分休符の存在意義を考えよう
16分休符は何かと説明する前に、譜面をご覧いただきましょう。

音楽之友社『日本の唱歌 決定版』(校・編:藍川由美)より
“はるの” の直後にある髪飾りのような記号が16分休符です。実はこれ、存在を忘れられていることが多い。いろいろ聴いてみると、
はーるのーうらーらーのー
みたいな感じで、16分休符を無視してつなげて歌われていたりするのです。正直、けしからんです。瀧廉太郎はわざわざ書いているのです。それを無視してしまったら、彼の思いをないがしろにすることになります。
16分休符がなぜ書かれたのかの理由は人それぞれで様々な考えがあると思いますが、私としては、どうもつなげて歌いがちな部分だからこそ、間延びしないようにとの思いで書かれたのだと考えます。また、”はるのーう” とつなげると言葉も分かりづらい。だからこその間(ま)だとも考えます。
16分休符や16分音符は、1拍の1/4の長さを持ちます(4拍子基準で1小節全体の長さの1/4 × 1/4 = 1/16 の長さ)。
しかし、厳密にその長さを守るというのは、音楽の本質ではありません。何のためにその休符や音符があるかを考え、その考えに適した歌い方を自分なりに模索する。作曲者の本意は分からずとも、思いを馳せることが大切ですね。
2番の “露浴びて” の音に注意
2番の “露浴びて” の “び” に注目しましょう。ここの音は下がります。
1番では、
… だ が↑ わー
と上がっていましたが、2番では、
… あ び↓ てー
となっています。ここは下パートが主旋律を担う箇所でもあり、テンションも1番よりは落ち着いています。
というか2番では、下パートが落ち着いてあけぼのの桜木を歌った後、上パートが夕暮れの青柳をエネルギッシュに歌うという対比になっています。と考えると、わざと “び” で音が下げられているのも合点がいきませんか?
3番の “おぼろ月” は p
3番の “おぼろ月” のところには p と書いてあるはずです。これはピアノと呼ばれる記号で、弱くといった意味があります。
しかし、けっこう無視されて歌われていることが多い。けしからんですな。
かといってただ弱くすれば良いというものでもありません。おぼろ月を表現したいものです。3番の歌い出しでは地上の景色だったものが、”おぼろ月” では上空になるわけですし、しかも霞んでいます。パッと切りかえたいところですね。
“げに一刻も” から感動はクライマックスへ
“げに一刻も” のところのリズムは、1番と2番とは異なりますが、気づきましたでしょうか?中学校の音楽の授業等では、ただ単にリズムを気をつけるよう言われるだけのことが多いと思いますが、ではなぜリズムが異なるのか。
私が思うに、ここでは感動を決然と表現したいからではないでしょうか。悪い言い方をすれば、少し乱暴になるほどに感情が膨らんでいる。だから一個ずつの発音を強めにしてハッキリ歌う必要があると思います。しかもここは、p を歌った後の f です!
その後、”眺めを” でやや気持ちを抑えられそうになりつつ、それに失敗して “何に” で感情が溢れかえります。クライマックスです!
クライマックスの最高音は前向きに
この歌の最後のクライマックス “何に” の “に” 。ここは本当に難しいですよね。高いし伸ばさないといけないし、しかも母音がイなので厄介。
言わずもがな、訓練を積んでうまく歌えるようにすることは必須です。
ただ、あぁ最高音だと構えすぎると失敗します。失敗しないようにとか、うまく出そうとか、そういった雑念が一番良くない。
繰り返しになりますが、ここは感動のクライマックス。この歌の主人公は、いちいち声がうまく出せるかなんて考えていません。ただただ感動して感情が溢れかえっているわけです。
したがって、感情の蛇口をしっかり開いて、その水が出続けるかのように歌っていきましょう。要は前にしか進んでいかないイメージです。この勢いは “眺めを” で既に始まっています。いや、”げに” からと言っても過言ではないでしょう。
もちろん、練習時には、ああでもないこうでもないといろいろ考えることになるとは思いますが、パフォーマンスを決めるべきときは、とにかく全身で歌詞の世界を感じ、素直に音楽に身を委ねて歌いたいものですね。
最後まで気を抜かないで
クライマックスの後、ホッとして力が抜けがちです。しかし、たとえクライマックスがうまくいっても、それでは音楽が台無しになってしまいます。
学校からお家に着くまでが遠足だよ、ではないですけれど、歌も似たようなもの。最後のピアノの伴奏が終わるまでが歌です。もっと言うと前奏や間奏も歌です。声に出して歌っていなくても、その作品の世界の中にいます。そこまで意識して練習に取り組むことが必要かと思います。
以上、けっこう長くなってしまいましたが、今回は歌曲「花」のお話でした。少しでも参考になったのでしたら幸いです。


コメント