卒業(新実徳英、谷川雁)紙ひこうき芝生でとばしたら…

歌曲

お待ちしておりました!

最近、街を歩いていると袴や振袖の姿の女性を見かけます。そうか、大学などの卒業式かと思いつつ、私も昔を思い出していました。

今回は、知る人ぞ知る歌曲である「卒業」について見ていこうと思います。こんな歌です。

これは私が歌ったものですが、自分としてはいまいち出来が良くない。もしまた録ることがあったら貼り直します!でも、どんな作品かはお分かりいただけたかと思います…というかそうであってほしい。

では早速、「卒業」について掘り下げましょう!

「あふげば尊し」より難解な卒業ソング!?

かねてより卒業ソングとして名高いのは、やはり「あふげば尊し」でしょう。ただ、古い歌ゆえに歌詞がやや難しく、とっつきにくい部分があります。

ならばもっと新しい卒業ソングなら理解しやすいか?

……たしかにその傾向はありますが、歌曲「卒業」について言えば、答えは No です。1995(平成7)年の作品ですが、上の動画でお聴いてお分かりのとおり、理解しにくい歌詞だったと思います。

理解できたというならそれは素敵なことですが、きっちり理解することが正しい姿とも限りません。ハッキリ言って意味が分からないといった率直な感想でも、芸術を嗜む上では正しい姿です。

以下、歌詞を引用しつつ、私ながらの解釈を述べていきたいと思います。

難解(?)な歌詞の解釈

折りたたむ かなしみが ひらいた

飛ばした紙飛行機のこと。飛んでいる最中にバッと開いた。これは自分の気持ち。新たな旅立ちを比喩しているのかもしれませんね。しかしそこには、慣れ親しんだ仲間や場所との別れという悲しみも伴っています。

この 白さは いつまで のこるのか

白は純粋無垢な色。まだまだ汚れていない、若者の心。どんな色にも染まります。今後ひとつずつ大人の世界へと渡るうちに汚れてしまわないか。いつまでも変わらぬ気持ちでいられるか。そういった不安もあるのでしょう。

天山北路の すなふる はなみずき
まどがらすに (以下略)

天山北路とは、中国・シルクロードの一部を指します。ここから黄砂が飛んできて、窓ガラスに付着します。そしてハラハラと落ちて、ハナミズキに降りかかっているのかもしれません。黄砂というと聞こえは悪いですが、この歌の中では、光に当たってキラキラしていそうです。

なぜ けものの わかさは つらいのか

突拍子もなく獣が出てきます。その前には溢れる夕暮れが描かれていますが、きっと血気盛んな若者のことでしょう。しかし、多感な心は、懸命にして未熟なもの。そしてデリケートでもありますね。まだまだ中身は青い(白い)のです。

ボッティチェルリ うまれ日 しらべてた

15世紀頃のイタリアの画家・ボッティチェリ。彼の作品には「春」があります。そして彼が生まれた月は3月とされています。春も3月も、現代では卒業シーズンと一致します。なんたる因果でしょうか。

水たたえる あの目 (以下略)

“たたえる” とは、讃えるでも称えるでもなく、湛えると書くのだと思います。水が目から溢れ出る様子です。つまり涙。では誰の涙か。…きっと友人。私としては、〈図書館か教室でボッティチェリを調べているときに、ふと「離れ離れになるのは嫌だよ」と思って悲しくなった友人〉と捉えたい。

解釈は自由!難解とは違う

以上のように解釈しましたが、こうやって解釈文を書くと、読者の中には、どうもそのまま参考にして自分のものにしてしまう人や、逆に「それは違う」と反論したくなる人が多い気がしますが、芸術性という観点から言えば、それはあるべき姿ではありません。

いかに自分なりに解釈して、いかに自分なりに咀嚼して歌うか。それが芸術するうえでは大切なことだと思います。

「あふげば尊し」のような歌は、時代背景と相まって比較的明確な意味合いを持った歌詞なので、解釈はひとつふたつに収束しやすい面があります。しかし「卒業」については、難解というより自由さ(悪くいえば曖昧さ)を持った歌詞なので、解釈は幾通りにもなり得ます。

歌詞の解釈の振り幅が大きい歌は、解釈に悩むことが多くなりますし、答えを知りたくなるものですが、そういう歌こそ芸術性を忘れずに歌っていきたいものですね。

『白いうた 青いうた』の一曲

歌曲「卒業」は元々合唱曲です。1991(平成3)年から1995(平成7)年にかけて編まれた『十代のための二部合唱曲集(のちに「三世代のための~」に改題)』の第46曲で、「卒業」は第3集に収録されています。

なお、私が用いた楽譜は、1997(平成9)年に独唱曲として編み直して生まれた『独唱とピアノのための「白いうた 青いうたII」』です。

先に曲があり、歌詞は後から

元の合唱曲集の特徴としては、先にある歌詞に曲をつけるという一般的手法ではなく、先にある曲に歌詞をつけるという逆の手法を採っている点です。これを、中国古典の韻文形式を参考にして填詞(てんし)といいます。

歌詞が音楽に付き従う形なので、一般的な手法に比べると音楽が自由です。むしろ歌詞を肩肘張って歌うより、しっかり音楽に身を委ねて歌っていくことが大切かと思います。

その他の編曲版

代表的なものは、上でご紹介した原曲(二部合唱)と独唱版ですが、ほかにも、混声合唱版、無伴奏男声合唱版もあるようです。今回の「卒業」は、卒業式などで歌われることがあると思いますが、シニアの合唱団なども、青春をコンセプトに歌って、心のアンチエイジングをしてみても面白いでしょう。

歌う上でのポイント

最後に、声楽的なお話をしたいと思います。音楽性を生かすべく、是非参考にしていただけたら幸いです。

8分の6拍子 = 2拍子

「卒業」は8分の6拍子です。一小節に、八分音符が6つ分入る拍子です。123223 ととることが多いかもしれません。

ただ、その 123223 の本質は太字の 1 と 2 にあります。太字の箇所に重きがきます。ですから、大きくは 1 2 1 2 ととることになります。つまりこれは2拍子です。楽典上でも、8分の6拍子は2拍子系と説明されます。

2拍子でとると、フレーズのとり方がより俯瞰的となり、歌い方もそれに影響され、旋律が生き生きとしてきます。マクロの視点で悠々と歌うためには、そういった捉え方が欠かせません。

“天山北路” の “ん” を丁寧に

何気なく歌うと、”天山北路” の “ん” が “て” に呑まれて消えてしまいます。元々聞き慣れない言葉とはいえ、聴き手の中には知っている人はいるでしょうし、少なくとも自分自身は分かっているはずなので、丁寧に発音したいものですね。

“友おくると” は、トモークルト ではない

よくやりがちなのは、”友おくると” を、トモークルトと歌ってしまうことです。幸いにも、”お” で音が上がり、かつ、その音は2拍目(細かく見ると4拍目)なので、そこまで違和感はありません。が、もしそうでなければ、完全に日本語が崩れて聞こえてしまいます。

“友” と “おくると” の間は、少しだけ言い直すための刹那な隙間をつくり、トモ ‘ オクルト と歌うと、ああ友を送るんだなと瞬時に分かる日本語となります。

日頃の会話では何気なく過ぎていく言葉ですが、歌では一つひとつに音楽的な時間が付与されて引き伸ばされます。粗がよりいっそう目立つようになるので、できる限りそれを無くすことが肝要ですね。

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