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5月になりました。最近、春らしい日もあれば夏日のようになる日もあり、そうかと思えば肌寒さを感じる日もあり、からだが気候の変動についていくのに必死です。
さて、今回は童謡「この道」を取り上げます。日本歌曲としてもよく歌われますね。まずは私が歌ったものを掲載します。
年を重ねるにつれ、この歌が深く感じるられるようになっている気がしますが、あなたはどうでしょうか?
では早速、「この道」について掘り下げていきましょう!
歌詞と、意味や解釈
まずは歌詞をご紹介し、その後細かく意味や解釈についてお伝えしていこうと思います。もう把握しているから大丈夫という方は通過してくださいね。
歌詞
この道はいつか來た道
ああ さうだよ
あかしやの花が咲いてるあの丘はいつか見た丘
ああ さうだよ
ほら 白い時計臺だよこの道はいつか來た道
ああ さうだよ
お母さまと馬車で行つたよあの雲もいつか見た雲
ああ さうだよ
山査子の枝も垂れてる
この詩を書いたのは、かの北原白秋です。1925(大正14)年、40歳の頃の作品で、初出は翌年の児童雑誌『赤い鳥』の8月号。そちらの詩は、上記の歌詞と微妙に違っていて、3番の3行目が、
母さんと馬車で行つたよ
となっていました。しかし、のちの1927(昭和2)年に山田耕筰が曲をつけたときは、”母さん” を “お母さま” へと改作しました。今回は歌として扱いますから、以下でも “お母さま” として話を進めます。
言葉の意味やイメージ
では、一つずつ気になる言葉を見ていきます。そこまで難しい文法はありませんが、イメージはなかなか難しいです。
ああ さうだよ:1〜4番すべてに出てくるこの言葉は、この歌の最も重要なものと言えるでしょう。いったい誰に向かって言っているのか気になりませんか?私は気になって仕方ない。ひとりでつぶやいているなら、自分自身に語りかけるもうひとりの自分がいるか、誰かの言葉の代弁を自分自身でしているのかということなりそうです。心の中の母の声でしょうかね。
- あかしや:アカシアのこと。北原が北海道で見た景色にもとづくため、それならばニセアカシアという品種になろうかと思います。花と出てくるので小さいイメージがありますが、ニセアカシアは人間の背丈を超えるほどの木です。5〜6月、そこにフサのような白い花が咲きます。花言葉は、友情、優雅、親睦、頼られる人など。

- 白い時計臺(時計台):これも北海道。札幌時計台がモデルです。観光地として名高いですが、残念な名所といわれることがあります。というのも、都会の喧騒の中にひっそりと佇んでいることにより、期待していたものと違うため。でも、時計台を見たら、是非「この道」に思いを馳せてほしいばかりです。
- お母さま:先述のとおり、原詩では “母さん” 。北原は自分の母を思い出して詩を書き、山田も母を思い出して曲をつけたそうです。歌い手もまた、自分自身の母をイメージするなりすると良いかと思いますし、北原や山田の代弁でも良いと思います。
- 山査子:サンザシ。花期は4〜5月で、白い花を咲かせます。秋頃に実が熟し、食用にもなり、漢方やお菓子にもなっています。木は1.5〜3mであり、枝にはトゲがあります。花言葉は、希望、ただひとつの恋、慎重など。

どこの道?どこの丘?どこの雲?
1番と2番については、先述のとおり北海道が舞台になっていますが、歌うときにはそのイメージに束縛されず、自分なりの道や丘をイメージして歌うのもまたよろしいかと思います。
母が出てくる3番や、サンザシが出てくる4番については、一説には、母の実家のあった南関町(熊本県)や、北原の故郷である柳川(熊本県)であるとの説があります。なお、4番のサンザシは、熊本県にも北海道にも近縁種以外自生しないため、人の手で植えられたものの可能性もあります。そうなると、どこをイメージするかは比較的自由でしょう。
また、4番の雲は、よくよく考えると深いです。昔見た雲と同じと感じる雲は、気象条件が揃わないと見ることができません。となると、今と昔を五感で捉えるならば、本当にかつてにタイムスリップするかのような感覚なのかもしれませんね。あなたにもそういう経験はありませんか?
“あの雲も” が “あの雲は” に?
“あの雲も” を “あの雲は” と書いてある歌詞を見たことはありませんか?
原詩では “あの雲も” です。山田の作品でも “あの雲も” です。
しかし北原は、1929(昭和4)年に、『月と胡桃』の中で “あの雲は” と改作しました。そのため、楽譜がこちらを採用していたら、歌い手も “あの雲は” と歌ってしまうことでしょう。
改作は本人の意思なのでそれも完全に間違いとはいえませんが、それはあくまで詩としてであり、歌としては “あの雲も” のままです。
“あの雲も” では、”も” を使っていることから、その前にある(あるいは隠された)言葉を受けているものと考えられますが、”あの雲は” となると、1〜3番との並列感が強まります。私として “も” のほうが好きです。あれもだ!と気持ちが昂っている感じがするからです。
歌ううえでのポイントや私の感想
さて、実際に歌うとなると、「この道」はなかなかに厄介です。というのも、山田耕筰らしく、強弱表現の指示が細かいからです。これらの存在意義を自分なりに理解して、それを体現していく必要があります。
優しいがコントローラブルな発声で
この歌で一番難しいのは、優しい声で歌わなければならないということ。
「なんだ、そんなこと簡単じゃん。ふわ〜っと歌えばいいじゃないか」
と思ったら大間違いで、そういう声に聞こえるように歌うには、相当のコントロールができなければなりません。ストレートに勢い良く歌うよりも遥かに難しいです。しかも山田の指示を忠実に守るには、よりコントローラブルな声でないと、繊細な表現ができません。余計な力を抜きつつも、自分の声にリードを付け散歩に行き、きちんと手繰るイメージです。
その点において、私の歌い方はまだまだだと感じます。私は他人の指示に事細かに従うことに性(しょう)が合っていないため、いささか鬱陶しいと感じてしまいます。技術的にもですが、精神的に未熟者ですね。
音程は、階段状ではなくトルコアイスのように
こういう優しい歌では特に、跳躍した音程は階段状にならないように注意を払う必要があります。
特にピアノや金管楽器などに慣れ親しんだ方は、音程を階段状にとりがちです。つまり、それぞれの音に専用の音栓がとりつけられているかのように歌ってしまうということ。
しかしそれだと、山田の繊細な表現はしづらくなります。
していただきたいイメージはトルコアイス。トルコアイスは、スプーンですくおうとするとビヨ〜〜〜ンとしなやかに伸びますよね。トルコアイスだとイメージしにくいなら、伸縮性のあるゴムでも良いでしょう。その辺はお任せします。
その伸縮のような感じで音程をとるようにしてみましょう。声帯の動きがしなやかになります。というか、しなやかに動かすことを目的に、上記のようなイメージをして試していく感じですね。はじめは、すべてにポルタメントをつけるように、大袈裟なくらいやると良いかもしれません。
上記は、しなやかに歌うのが元々苦手な私が考えた練習方法です。
1〜4番は同じ歌い方にならない
「この道」は、有節歌曲(ゆうせつかきょく)といって、各節(つまり各番)に同じ譜面があてがわれている歌です。まあ、童謡の多くはこの形式ですね。
もし機械的に歌うのであれば、1〜4番はすべて同じ歌い方になります。そうならなければ理屈としてはおかしいです。しかし、歌は人間がやることです。同じになんてなりませんし、する必要もない。むしろ同じになるほうが変です。
実際に「この道」を朗読してみると、各節で同じ気持ちや同じイメージを抱くことはありえません。当然歌でもそれは言えます。だから同じ歌い方になるはずがないのです。
ただ、そこを有節歌曲という限られた枠内でなんとか豊かに表現するのも、またひとつの美学だと思います。同じ指示記号であっても、その捉え方や表現方法には幅や深さがありますから、歌い手はよく咀嚼して歌を構築していくことが大切ですね。


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