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2月も後半になると、なかなか暖かくならなず、ぶり返す寒さに苛立ちすら覚えるようになります。暦は春なのに、まだまだ春らしい春ではありませんね。
そんな今日は、”春よ來い はやく來い” で有名な童謡「春よ來い」を取り上げたいと思います。
短いにもかかわらず、とてつもなく印象に残るメロディーと歌詞ですね。ドラマを感じます。素晴らしい芸術作品は、やはりいつになっても素晴らしいものです。
では、「春よ來い」について掘り下げていきましょう!
桃の木の蕾?ということは季節って…
この歌の2番には “桃の木の蕾” が出てきます。私が歌ったとき、そこがまず引っかかりました。
その前に、まずは歌詞全文から見ていくこととしましょう。
歌詞
春よ來い はやく來い
あるきはじめた みいちやんが
赤い鼻緒の ジヨジヨはいて
おんもへ出たいと 待つてゐる春よ來い はやく來い
おうちのまへの 桃の木の
蕾もみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待つてゐる
※ほぼ初出に忠実に書きました。ただ、2番の “はよ咲きたいと” は、初出では “はよ吹きたいと” となっています。
※ “ゐ” はワ行のイ段。現代仮名遣いでは “い” となります。
単語の意味
歌詞には、現代の人にとって、なかなか馴染みのない単語が登場します。
- 鼻緒:ゲタや草履などの、指をかける部分。親指と人差し指の間に食い込むやつですね。
- ジヨジヨ:ジョジョと読みます。草履の幼児語です。草履については Wikipedia をご覧ください。
- おんも:表のこと。家の外ですね。
これらの単語は、最近はあまり聞かなくなりましたね。しかしこうして歌の中では生きています。これらのことばだからこそ、語感が柔らかく、かわいらしくなりますね。
なお、上記の単語はすべて1番。2番は特に説明がいらない単語ばかりかと思います。
桃の開花は3月半ば頃から
桃の花が咲くのは地域にもよって異なり、3月半ば頃〜と4月下旬。蕾がふくらんで今こそ咲かんとするのは、花が咲く少し前の頃といえそうです。
つまり、この歌でいう “春” は、暦でいう春ではなく、まさに気象学的な春のことなんだなあと思います。すっかりあたたかくなっている季節を指しているのでしょう。
桃の節句(ひな祭り)を3月3日に迎えますが、そこでは桃の花を飾ったりもしますね。ただ、桃の節句は元々旧暦の3月3日であり、新暦では4月。桃の花の季節は思っていたよりもまだまだ先といえましょう。
となると、「春よ來い」は、2月に歌うよりも本当は3月に歌うほうが適しているかもしれません。新暦で考えると、3月はもう春(暦でいう春)の真ん中の時期なので、ちょっと遅く感じますけどね。
みいちゃん は あやちゃん だった!?
「春よ來い」には、珍しく固有名詞として “みいちやん” が登場します。
果たして、みいちゃんはいったい誰なのでしょうか。
猫じゃありませんよ!猫が赤い鼻緒のジョジョをはいていたらシュールすぎます。
作詞者の娘がモデルか
みいちゃんは、作詞者の相馬御風氏の長女・文子(あやこ)さんがモデルになったといわれています。文子さんは、兄からそう聞かされていたらしいです(当の本人はそれまで知らなかったとか)。
文子さんは、実は割と最近までご存命でした。1921(大正10)年に生まれ、2009(平成21)年にお亡くなりになっています。
歌では “あやちやん” ではなく “みいちやん” ですが、元々は前者だったものを、歌いやすさを考慮し、作曲者が後者を提案したんだそうです。
焼け滅びたジョジョ
文子さんの記憶にあったジョジョは、赤い正絹の草履で、かかとに紐が付いていたそうです。これが「春よ來い」の “ジヨジヨ” のモデルといえましょう。母に初めて買ってもらった草履だったとのことです。
しかし無念にも、相馬邸の火事でその草履は焼滅してしまったというのです。1928(昭和3)年のことでした。
「春よ來い」が初めて発表されたのが、1923(大正12)年の『金の鳥』。文子さんが生まれて約2年経った頃です。そしてその5年後に、そのジョジョは焼けてしまったというわけです。悲しいですね。
なぜそう歌うの!?な歌い方
「春よ來い」を口ずさむ人は、かつては割といたように思います。今でも、冒頭のフレーズを何気なく歌う人は少なくないでしょう。
そんな気楽な場面ですら本気になってしまうのが、声楽畑で生きていきている私としての性といえましょう。
來ぃ? ……來い だよ!
冒頭の “春よ來い” を、あなたならどう歌いますか?
色々耳にしていると、どうも “來い” を “來ぃ” と歌ってしまっているケースが多いように思います。どういうことかというと、多くの人が、”い” まで丁寧に発音せず、捨てるように処理してしまっているのです。神経が行き届いていない!愛する人をもそのように扱っているの?と問いたくなります。
いや、わざとそうやりたければいいんです。また、歌詞に出てくる計4つの “來い” が全部それになっていなければ、あぁ表現のひとつかなと思えます。
しかし、何も考えずにノリだけで歌う人は、たいてい4つすべてを “來ぃ” と捨てるように歌っていたりします。
何が言いたいかというと、芸術としてきちんと歌いたいならそれはダメ!ということです。
“來い” という命令形のことば。最後の “い” まできちんと意を注ぎ、春への思いを歌い方に反映すべきです。そういう構築をきちんと行なって練習し、その上で仕上げは無心に歌うのが良い方法だと私は思っています。
まあ、気楽に口ずさんでいるだけの人に対して、さすがにツッコミはしないですけどね。
“おーち” ってなあに?
2番に出てくる “おうち” も、何気なく歌ってしまうと “おーち” となり意味が通りません。”お” と “う” が同じ音高なので起こりやすい現象とも考えられますね。
“おうち” は〈お+うち〉なので、”う” の発音を意識的に行う必要があります。やや口をすぼめる感じで発音すると良いでしょう。
少しの意識が大きな効果を生む
童謡は子どもの歌。それに間違いはありません。
しかし、童謡の世界を表現するという観点で考えると、一筋縄にはいかないことも確かです。童謡を書いている人はたいてい大人であるのと、大人の視点から子どもの世界を描いていたりするからです。
一つひとつのことばには、その作詞者の人生が反映されています。また、童謡の音楽にも、作曲者の人生が反映されています。
そういったところに敬意を払って作品に取り組むことは、芸術に携わる者としての当然のスタンスですし、芸術に携わらない人にとってさえも、やはり望ましい姿勢だと私は考えます。
とはいえ堅苦しいのもあれなので、無理のない範囲で少しずつ意識していくことが大切だと思います。先ほど書いた歌い方をちょっと意識するだけで、作品の味がグッと伝わることでしょう。


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