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「あの町この町」。どこか物悲しい童謡ですね。野口雨情と中山晋平の名コンビによる作品です。
まずは私が歌ったものを掲載させていただきます。
動画では割と鮮明な画像を使用しましたが、歌からは、赤いバックに黒いシルエットの人や家々が思い浮かんできませんか?
1924(大正13)年に児童雑誌『コドモノクニ』にてこの世に出てきた童謡です。今回はこの童謡について掘り下げていくことにしましょう。
はずみをつけたリズムで私は歌っていますが、はずみをつけないリズムで歌う人もいます。そのあたりのことにも触れていこうと思います。
一体何を歌っているのか?
「あの町この町」の歌詞は以下のとおりです。
あの町この町
日が暮れる 日が暮れる
今來たこの道
歸りやんせ 歸りやんせ
お家がだんだん
遠くなる 遠くなる
今來たこの道
歸りやんせ 歸りやんせ
お空に夕の
星が出る 星が出る
今來たこの道
歸りやんせ 歸りやんせ
歌詞だけ読むと、何のこっちゃという感じです。少なくとも私はそう思いました。しかし歌というのは奥が深い。さあ、解像度を上げていきましょう。
帰るのは子どもか
誰が帰るのか。「帰りゃんせ」と呼びかけているのは誰なのか。
主語を明らかにしたいですが、歌詞からは全く把握することができません。おそらく子どもが帰るものと思われますが、確証はありません。
ヒントとしては、『コドモノクニ』に掲載された歌詞ページ。ここには岡本歸一による挿絵がありますが、正月の夕刻時に少女が寂しそうに歩く様子が描かれています。1月号なので正月なんですね。
また、『金の星童謠曲譜第九輯 あの町この町』の裏表紙には、竹久夢二の絵で、夕刻時の田舎道を母子が歩く様子が描かれています。さらに講談社の『童謡画集』等でも子どもが描かれています。
そういった絵が作詞者の抱いたイメージを完璧に表現しているとは思いませんが、帰る主体は子どもであるという解釈は、広く共感を得られそうではありますね。
帰るのにお家が遠くなる奇妙さ
自分の家に帰るのだとしたら、帰るのにお家が遠くなるというのは、ちょっと引っかかる表現ですね。
では、自分の家ではなく、訪問先と捉えたらどうでしょう?たとえば町から田舎は帰るという描写。それならば、平凡ですけど自然ですね。
“あの世” に行くなという思いか
反対の解釈も可能です。お家を出て訪問先へ向かうのですが、第三者が「そんなに先に進んだら戻れなくなるから、今来た道を戻って早くお家へ帰りなさい」と呼びかけているといった解釈です。
それを飛躍させると、 “あの世” に向かっている途中で、誰かが「引き返せ」と呼びかけている可能性も考えられます。ある一定のラインを越えると二度と “この世” に戻れない。だから引き留めているのです。
それが原因か、実は私、怖さのようなものをこの歌から本能的に感じました。もう二度と帰れないような気がしたのです。
作詞者は幼子を亡くしている
作詞者の野口は幼い長女みどりを亡くしており、「シャボン玉」という童謡もそれが背景にあるかもという考察は有名です。同じく「あの町この町」でも、子供を亡くしたことが背景にあり、戻ってきておくれという思いが(無意識的にも有意識的にも)働いていたかもしれませんよ。
深読みのしすぎでしょうか。。
はずみをつけるべきか、音符どおり歌うべきか
さて、重たい話から音楽の話へと入りましょう。
「あの町この町」は、”あーのまーちこーのまーち”とはずみをつけて歌うものと、”あ の まち こ の ま ち” とはずみをつけずに歌うものとが聴かれます。
私ははずみをつけて歌ってみましたが、安田祥子さんとかは弾みをつけずに歌われています。
では一体どちらが正解でしょうか?
世間が勝手にはずみをつけた
楽譜では “あ の ま ち こ の ま ち”とはずみをつけない書き方になっています。が、実際多くの人は、勝手にはずみをつけて “あーのまーちこーのまーち” と歌っていたそうです。それが当時の日本人の癖でした。それを老若男女が歌い、広まっていったわけです。
中山ははずみを認めた
作曲者の中山は当初、”あ の ま ち こ の ま ち” とはずみをつけずに歌うのを想定しました。なのに世間でははずみをつけたリズムで歌われていったため、彼もそれを汲み、後々楽譜に “はずみをつけて” という指示を入れるに至りました。
というわけで、どちらのスタンスに立って歌うかによって正解が変わります。オリジナルの意思を尊重するならはずみをつけずに歌い、のちの中山の変更を尊重するならはずみをつけて歌うのが正解となります。
中山といえばピョンコ節
なお、中山が書いた「兎のダンス」「蛙の夜回り」なども、はずみをつけたリズムを想定して作られています。このはずみをつけたリズムのメロディーをピョンコ節と呼んだりしますが、中山といえばピョンコ節の代名詞!と言っても過言ではないでしょう。
ピョンコ節は、西洋音楽にはないリズムです。西洋の跳ねるリズムや揺らぐリズムとは似て非なるもの。まるで着物を着た子どもが、土の上で鞠をついているかのようなリズムです。これは日本人の血でないと実演し得ないリズムといえます。
ピアノ伴奏の音の違い
「あの町この町」は、中山がピアノ伴奏の音も変更しています。
当初は、楽譜5小節目の右手が レファレド となっていましたし、今流布している楽譜の多くも レファレド となっています。それに対して歌のメロディーは レレレド です。
私は問題視しない
ピアノと歌のメロディーが合致しません。だから誤植である!という意見もありますが、歌ではよくあることなので私は問題視していません。歌の音とピアノの音を揃えなければ不自然だ!ってこともないと思います。
変更実施!しかし……
1949(昭和24)年の全音楽譜出版社の『中山晋平童謠集』では、レファレド ⇒ ・レレド(・は八分休符)と、中山により変更が施されています。八分休符をぶち込んだところにセンスを感じます。
ところが中山亡き後に発行された改訂楽譜では、レファレド に戻っています。これこそ誤植なのか、はたまた中山の遺志による前言撤回かは不明ですが、今はそのレファレド版が広く知られています。もし誤植だとするならば、中山が明らかにそう述べた証拠がない限り、誤植と結論づけることはできません。
私と「あの町この町」の出会い
長くなってきたのでそろそろ終わりにしたいですが、最後にどうでもいい話をします。
私が初めて「あの町この町」を知ったのは、高校時代に安田祥子さんと由紀さおりさんの童謡コンサートを聴きに行ったときでした。私の記憶が間違っていたらすみませんが、最後の最後(アンコールだったかな?)で歌われました。
そのときははずみをつけないリズムでした。そしてステージが暗くなっていく。コンサートは5時間くらいにも及ぶ長丁場だったと思いますが、「ああ、長かったコンサートもこれで終わりか。さみしいなあ。もっと聴いていたかったなあ」と思いながら聴いていました。夢の世界から現実世界に引き戻される感覚でした。


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