お待ちしておりました!
9月ももうすぐ終わり。秋とは名ばかりな日々が続いていましたが、ようやく秋らしくなってきました。とはいえ引き続き熱中症には要注意。まだ日中は暑いです。
今回は、團伊玖磨の歌曲「秋の野」について。まずは私が歌ったものを掲載したいと思います
なんか切なくも怖さのある歌とは思いませんか?ミステリーといいますかホラーといいますか、そんな要素を感じます。
では早速、「秋の野」についてクローズアップしていきましょう。
歌詞の意味と解釈
とりあえずまずは歌詞。きっと本記事を読みに来られた方は、歌詞の意味や解釈に戸惑っておられることと思います。
しかし先に言っておくと、このまま読み進めてもきっと解決はしません。ただ、私なりの解釈をご紹介するので、考察の材料にはなるかもしれません。
歌詞
歌詞は、1929(昭和4)年9月『コドモノクニ』に掲載されたものです。なお、曲は1945(昭和20)年に作られ『六つの子供の歌』で発表されているため、時期に少し乖離があります。
あの子が ゆくよ
見たよな あの子
おんなじ 道を
おんなじ 方へ
だれだろ あの子
ちいさな あの子
わたしの 前を
わたしの ようにあの子が ゆくよ
髪の毛が ひかる
野の道 小径
もう日は 暮れる
はぐれな あの子
見たよな あの子
お月さま 出たに
ほういと 呼ぼよ
言葉の意味としては、特に言及はしなくても良いかと思います。書いてあるとおりです。
しかし、いったい “あの子” とは誰なのか。そしてどんなシチュエーションなのか。そのあたりの解釈が難しいですね。
“あの子” とは?
“あの子” は、見たような子、小さな子、はぐれているように見える子ですが、年齢はよく分かりません。おそらく幼い男の子か女の子なのだと思いますが、子だとて若い大人を指すこともありえます。
その子は、私の前を、私と同じ方向へ、私のように歩いているようです。
……待てよ。そうなると自分の影のことなのだろうか?夕方に後ろから日が差し、細長い影が自分の前に向かってできているのだろうか?しかしそうだとしたら、髪の毛が光るとはいったいどういうことなのだろうか。ツヤがある(若い)ということだろうか。だとしたら “私” はすでに若くなくて、歳を重ねた立場から若い人を見ているのだろうか。
考えても考えてもよく分かりません。さらに想像力を膨らませると、もはやこの世のものではない何かなのかとも思ったりします。霊とか魂とか、はたまた幻覚とか過去の自分の姿とかも考えられます。
しかし、得体の知れない “あの子” だから良いのだとも思います。このボヤけた感じがこの歌の魅力のような気がします。陽炎のような美しさと儚さがありますね。
何をしているのか?
登場人物は何をしているのかと聞かれたら、まあ歩いていると答えるのが自然かもしれません。
しかし、なぜ歩いているのか。秋の野とはどんな場所か。この世に存在する場所なのか。どこへ向かっているのか。何のために歩いているのか?そもそも走っている可能性はないのか?最後に “ほうい” と呼んだのはなぜか?
……色々な疑問が湧いてきます。もはや意味など考えても無駄なような気すらします。曖昧のままにしておいたほうが、歪んだ時空のような奇妙さが色濃く出て、面白くさえあります。
解釈は自由なものです。
音楽表現の工夫
では、音楽的なお話を進めていきます。
全体的にたんたんと進んでいけば良いと思いますが、主に私が意識した点に触れていきましょう。
Andante は遅くならず
まず、楽譜の先頭には Andante との指示があります。呆然としていると、やや遅めなのかな?と捉えがちですが、そうではありません。
Andante は〈歩く速さで〉と訳されますが、andare という動詞の現在分詞です。andare は、英語でいう go や walk に該当するので、Andante は going や walking といった意味になります。
go のニュアンスが強いため、のんびり歩くのではなく、割とスタスタ歩くようなイメージがあります。もっと抽象的にいうと、前に進んでいく感じですね。だから、この「秋の野」も、のんびりせず、前へ前へ歩みを積極的に進めていくように歌いたいものですね。
poco lunga で一旦考える
“おんなじ方へ” のところでは、楽譜に poco lunga とあります。これは〈少し長く〉という意味です。
物理的には音を伸ばせば良いわけですが、ここではフェルマータのようなイメージがあると良いと思います。フェルマータには駅、バス停などの意味があり、音楽では停止といった意味になったりします。その結果、長く伸ばすわけです。
lunga もそのようなニュアンスのベクトルを持っていると見て良いでしょう。ただし poco とあるため少しだけです。一旦フレーズは終わるわけですが、次の歌詞が “だれだろ あの子” とくるので、誰だろうと考える間(ま)として捉えると、poco lunga の存在意義が出てきます。
最後の smorzando で滲んでいく
歌の最後には smorzando とあります。これには〈消えるように〉という意味があります。物理的には、だんだん遅くし、だんだん弱くしていきます。いわばフェードアウトです。
しかし、ここは音も景色も滲んでいくような感じがあります。お月さまの出た夜に、”あの子” の影(暗くてすでに見えなくなっているかもしれないが)に向かって “ほうい” と呼ぶわけですが、その声がこだまするかのようにボヤけて、世界の輪郭が幻のように溶けていくイメージが私にはあります。
もちろん、上記はひとつの捉え方にすぎません。自分なりに解釈やイメージをすることが大切だと思いますね。


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